社会契約論 

 ルソー 「社会契約論」桑原武夫等訳 岩波文庫

   われらは協約の公平なる法を明言し
    −−−ウェルギリウス「アエネーイス」



漢字変換の煩雑を避けるために、一部、送り仮名や漢字が原書と異なるものもあります。

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p014
    政治について筆を執るからには、あなたは君主か、それとも立法者なのか、と聞く人があるかも知れない。私は答えよう。そうではない、また、そうでなければこそ、政治について筆を執るのだ、と。もし、私が君主か立法者であったなら、私はなさねばならぬことをしゃべるために時間を空費したりはしないだろう−−−私は、なすべきことを実行するか、それとも沈黙するだろう。

   自由な国家の市民として生まれ、しかも主権者の一員として、私の発言が公の政治に、いかにわずかの力しか持ち得ないにせよ、投票権を持つということだけで、私は政治研究の義務を十分課せられるのである。幸いにも、私は、もろもろの政府について考えめぐらす度ごとに、自分の研究のうちに、私の国の政府を愛する新たな理由を常に見出すのだ。

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p015
    人間は自由なものとして生まれた、しかしいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上に奴隷なのだ。どうしてこの変化が生じたのか?私は知らない。何がそれを正当なものとし得るか?私はこの問題は解き得ると信じる。

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p016
    あらゆる社会の中で最も古く、また、ただ一つ自然なものは家族という社会である。ところが、子供たちが父親に結びつけられているのは、自分達を保存するのに父を必要とする間だけである。この必要がなくなるやいなや、この自然の結びつきは解ける。子供たちは父親に服従する義務をまぬがれ、父親は子供たちの世話をする義務をまぬがれて、両者等しく、再び独立するようになる。もし、彼らが相変わらず結合しているとしても、それはもはや自然ではなく、意志に基づいてである。だから、家族そのものも約束によってのみ維持されている。

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p022
    子供たちは、人間として、また自由なものとして、生まれる。彼らの自由は、彼らのものであって、彼ら以外の何びともそれを勝手に処分する権利はもたない。

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p028
    少数者は多数者の選択に従わなければならぬなどという義務は、一体どこにあるのだろう?主人を欲しいと思う百人の人が、主人など欲しいと思わない十人の人に代わって評決する権利は、一体どこからでてくるのだ?多数決の法則は、それ自身、約束によってうちたてられたものであり、また少なくとも一度だけは、全員一致があったことを前提とするものである。

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p029
    ところで、人間は新しい力を生み出すことはできず、ただ既にある力を結びつけ、方向づけることができるだけであるから、生存する為にとり得る手段としては、集合することによって、抵抗に打ち勝ち得る力の総和を、自分達が作り出し、それをただ一つの原動力で働かせ、一致した動きをさせること、それ以外にはもはや何もない。

   「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、依然と同じように自由であること」これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える。

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p033
    すべての臣民を主権者に対して義務づけうるところの公共の議決[社会契約]は、その理由を逆に使って、主権者を主権者自身に対して義務づけることはできない。

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p037
    私たちは、人間をして自らまことの主人たらしめる唯一のもの、すなわち道徳的自由をも、人間が社会状態において獲得するものの中に、加えることができよう。なぜならば、単なる欲望の衝動[に従うこと]は奴隷状態であり、自ら課した法律に従うことは自由の境界であるからだ。

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p041
    この基本契約は、自然的平等を破壊するのではなくて、逆に、自然的に人間の間にありうる肉体的不平等のようなもののかわりに、道徳上および法律上の平等をおきかえるものだということ、また、人間は体力や、精神については不平等であり得るが、約束によって、また権利によってすべて平等になる

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p046
    真理は財産をもたらすものではなく、また人民は、大使や教授の地位や年金を与えてはくれないのだ。

   人は常に自分の幸福を望むものだが、常に幸福を見分けることができるわけではない。

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p047
    人民は腐敗させられることは決してないが、ときには欺かれることがある。そして、人民が悪いことを望むように見えるのは、そのような場合だけである。

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p048
    いかなる国家の創設者も、国家内の敵対に対して備えることができない以上、彼は少なくとも、徒党が生まれないよう備えるべきである−−−マキャヴェリ「フィレンツェ史」

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p050
    理性の法則の下においても、自然法則の場合と同様、原因なしには何ものも起こらない

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p051
    意志を一般的なものにするのは、投票の数よりもむしろ、投票を一致させる共通の利害であることが、理解されなければならない

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p055
    私の考えはすべて一貫しているのだが、いちどきに全部は説明できない。

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p056
    刑罰が多いことは、常に、政府が弱いか、怠けているかのしるしである。何かのことに役立つようにできないというほどの悪人は、決していない。生かしておくだけでも危険だという人を別とすれば、みせしめのためにしても、殺したりする権利を、誰も持たない。

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p057
    すべての正義は神から来たり、神のみがその源である。しかし、もし我々が正義をそんなに高いところから受け取るすべを知っているとしたならば、我々は政府も法も必要としないであろう。

   しかし、それでは、法とは一体何だろうか?この言葉に形而上学的な観念しか結びつけないで満足している限り、いつまで理屈を言っても、話は少しも通じないだろう。また、自然の法とは何か、ということに答えた時も、国家の法とは何か、ということが、そのために一層よく分かることにはなるまい。

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p058
    全人民が、全人民に関する[法の]取り決めをするときには、人民は、人民自身のことしか考えていないのである。そして、その際ある関係がつくられるにしても、それは、ある見地から見られた対象全体が、別の見地から見られたその全体に対する関係であり、何ら全体の分割が起こるのではない。その場合、取り決めの対象となるものは、取り決めをする意志と等しく一般的である。私が法と呼ぶのは、この行為なのである。

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p059
    法は意志の普遍性と、対象のそれとを一つにしている以上、誰であろうと、一人の人間が自分だけの権力で命じたことは、法ではないということがわかる。主権者ですら、個別的対象に対して命じたことは、もはや法ではなくて命令であり、主権の行為ではなくて、行政機関の行為であることが分かる。

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p062
    * 人民は、その立法が衰え始める時に初めて、有名になる。スパルタ人がギリシャの他の部分で問題になるまでに、どれほど多くの世紀の間彼らの幸福がリュクルゴスの制度によって保たれたか、その期間の長さは分からないのである。(紀元前11世紀(紀元前1000年頃)、ドーリア人(鉄器を持ち、紀元前12世紀頃からバルカン半島北部より南下した西方方言群のギリシャ人第2波、ちなみに第1波は紀元前20世紀頃南下しアテネを建国したイオニア人)がペロポネソス半島に侵入し、半島南部のラコニア平原に先住していたアカイア人を制圧し、スパルタを建国。スパルタは完全な市民権を持つスパルタ人、土地を所有し商工業に従事し兵役の義務を負うが参政権は持たない不完全市民で「周辺に住む人々」ペリオイコイ、財産・家族を持つことは許されていた農奴ヘイロータイで構成されリュクルゴス制度が布かれた。第一に王権の無制限な拡大が抑止されていた。第二に富の不均一の排除、つまり土地の公平分配・意図的に貨幣の改悪を行い貨幣制度の跋扈を排斥・全社会的な給食制度。第三に所謂スパルタ教育、つまり7歳以上の子供は親元を離れ、集団生活の中で教育される。

 

   「社会の発生に際しては」とモンテスキュは言っている、「制度を作るのは共和国のかしらだが、あとではその制度が共和国のかしらを作る」

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p063
    リュクルゴスは、その祖国に法を与えたとき、まず王位を捨てた。ギリシャの諸都市の大部分では、その法の制定を外国人に委ねることが習慣であった。近代イタリアの諸共和国は、しばしばこの習慣をまねした。ジュネーブの共和国もそうして、うまくいった*。ローマはその最も栄えた時代に、内部に専制のあらゆる犯罪が復活し、今にも滅びそうになったが、それは同じ人々の手中に、立法の権威と主権とを集中したためであった。
   *カルヴィンを神学者としてしか考えない人々は、彼の天分の広さをよく知らないのだ。彼が大いに力をかした我が国(ジュネーブ)の賢明な諸法令の編纂は、彼の「綱要」と同程度に、彼の名誉をなすものである。時の経過とともに、我々の信仰にいかなる革命がもたらされようとも、祖国と自由との愛が我々の間から消え去らない限り、この偉人の記憶は、我々の祝福の的たることを、決してやめないだろう。

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p065
    賢者たちが、普通人に向かって、普通人の言葉でなく彼ら自身の言葉で語ろうとすれば、彼らの言うことは理解されないだろう。ところが、人民の言葉に翻訳できない観念は、沢山ある。あまりに一般的な見解、あまりにもかけ離れた対象は、ひとしく人民には手が届かないものである。

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p066
    立法者はその理性の決定を不死のもの(神々)の口から出たもののようにし、そうして人間の思慮によっては動かし得ない人々を、神の権威によって引っ張って行ったのである。だが、神に語らせたり、自分は神の代弁者であると宣言して信じられるのは、どんな人にでもできることではない。立法者の持つ偉大な魂こそ、彼の使命を証明すべき真の奇跡である。どんな人でも、石板に文字を刻み、信託を買収し、何らかの神的なものと秘密の交わりがあるかのように装い、鳥を仕込んで自分の耳に囁かせ、そのほか人民を騙す卑しい手段を見つけだすことはできる。今言っただけの知恵しかない者でさえ、ひょっとしたら、一群の愚か者を集めることはできるかも知れない。だが、彼は決して国を建設しないだろうし、彼の無法な仕事は、彼とともにやがて亡び去るだろう。空虚な威信は、一時だけの絆しか作らない。絆を永続的なものとするのは、英知だけである。

    *マキャヴェルリは言う、「いかなる国民においても、神にたよらないで特別の法を公布したものはないことは、真実である。なぜなら、そうしなかったら、彼らは受け入れられなかったろうから。賢者には認められても、他の人々を納得させるほどには自明でない多くの利点がそうした法律には存在するのである」と。(ティトゥス・リヴィウス論、第一編、第十一章)

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p067
    すべて以上述べたことから、ウォーバートンとともに、政治と宗教とが、我々の間では共通の目的を持つ、と言うべきではなく、寧ろ、諸国民の起源においては、宗教が政治の道具として役立つ、と結論しなければならない。

   建築家が、大建築を建てる前には、土地を観察したり、探りを入れてみたりして、それが重みに耐えられるかどうかを見るように、賢明な立法者は、それ自体としては申し分のない法律を編むことからは始めずに、予め、彼が法律を与えようとする人民が、その法律を支持するに相応しい(ふさわしい)かどうかを吟味する。プラトンが、アルカディア人とキレナイ人に法律を与えることを断ったのは、このためであって、彼は、この二つの人民が富んでいて、平等生を受け付けぬことを知っていたからである。また、クレタ島において申し分のない法律と性悪な人間とが見られるのも、このためであって、ミノスが規律を与えたのが(既に)悪徳に染んだ人民に他ならなかったからである。

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p068
    人民は多くの場合、人間の一生と同じく、従順なのは青年期だけで、年をとれば直しようもなくなる。一たび慣習が定まり、偏見が根を下ろしてしまったとき、それを改革しようとするのは危険で無駄な企てである。災いを除いてやろうといっても、人民は、触られるのさえも辛抱できない。それは、医者の姿を見ただけで身震いする愚かな、意気地なしの病人に似ている。

   ある種の病気が、人々の頭を混乱させ、過去の記憶を奪うことがあるように、国家の存続している間に時として激しい時期があり、その時にはある種の発症が個々人に対してなすのと同じ作用を、革命が人民に対して及ぼし、過去に対する恐怖が過去の忘却の役割を努め、国家は内乱によって焼かれながらも、いわばその灰の中から蘇り、死の腕から出て、若さの力を取り戻すことがある。これこそ、リュクルゴスの時のスパルタであり、これこそタルキヌス家の後のローマであり、また、これこそ、我々近代国家の間では、暴君を追放した後のオランダとスイスの姿であった。 

   人民が自ら自由になりうるのは、人民が単に未開である間だけのことであって、市民の活力が消耗した時には、もはやそういうことはできない

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p069
    動乱が人民を破壊することはありえても、革命が人民を再建することはできない。

   一は自由を獲得することはできる。しかし、自由は取り戻されるものでは決してない

   彼(ピョートル大帝)は、彼の臣民に対して、彼らが現実にそうなってもいないものに、すでになっているものだと思い込ませることによって、彼らが成り得るはずであったものになることを永久に妨げてしまった。

   これと同じやり方で、フランスの教師は生徒を教育するので、生徒は少年の頃一時目立ちはしても、結局決してろくなものにはならないのである。

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p071
    最後に最高行政がやってきて、何もかも押しつぶす

   頼らねばならぬ時には、国家はいつも破滅に瀕している

   最高行政の中心というので同じ場所に集められた、互いに見知らぬ人々のあの多数の内では、才能は埋もれ、徳行は知られず、悪徳は罰せられない。支配者たちは事務に圧倒されて、自分の目では何も見ない。国家を統治するのは小役人たちである。

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p074
    彼らは非常に小さくなるか、大きくなるかしなければ、自由を保つことができない。

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p075
    簒奪者は、いつもこの混乱期を招き寄せるか、またはこの時期を選んで、人民が冷静であれば決して採用しないような破壊的な法を、公衆の恐怖に乗じて通過させるのである。

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p077
    全ての人々の最大の善は、あらゆる立法の体系の究極目的であるべきだが、それが正確には、何から成り立っているかを訊ねるなら、我々は、それが二つの主要な目的、すなわち自由と平等とに帰することを見出すであろう。自由−−−なぜなら、あらゆる個別的な従属は、それだけ国家という政治体から力がそがれることを意味するから。平等−−−なぜなら、自由はそれを欠いては持続できないから。

   富については、いかなる市民も、それで他の市民を買えるほど豊かではなく、また、いかなる人も身売りを余儀なくされるほど貧しくはないということを意味するものと理解せねばならない。このことは、大きな者のがわでは、財力と勢力、小さな者のがわでは貪欲と羨望について、それぞれ控えめであることを前提とする。

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p079
    かつてのヘブライ人、また近くはアラブ人たちは、主要な目的として宗教を持ち、アテナイ人たちは文学を、カルタゴとチロスは商業を、ロードスは航海を、スパルタは戦争を、そしてローマは徳を主要な目的としたのである。「法の精神」の著者は、多くの実例を通じて、どのような技術によって、立法者が、これら様々の目的の各々に制度を導くかを示した。

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p093
    まず第一に、主権者は、政府を人民全体または最大多数の人民に委任して、単なる個人としての市民の数よりも、行政官たる市民の数が多くなるようにすることができる。このような政体は、「民主政」という名で呼ばれる。
  あるいは、主権者は、政府を少数の人々の手に制限して、行政官の数よりも単なる市民の数が多くなるようにすることもできる。このような政体は、「貴族政」と名付けられる。
  最後に、主権者は、政府全体をただ一人の行政官の手に集中させて、他の全ての行政官たちは彼らの権力を、この一人の行政官から譲る受けるようにすることができる。この第三の政体は、もっとも普通の政体であって、「君主政」または「王政」と呼ばれる。

〜〜〜

   スパルタには憲法によって常に二人の王がいた。また、ローマ帝国には、同時に八人もの皇帝がいたが、にもかかわらず、帝国が分裂していた、とはいえなかっただろう。このようにある一点において、それぞれの政体は次の政体と混ざり合うのである。そして、名称はただの三つにすぎないが、実際には政府は、国家が持っている市民の数と同じだけの様々な形態を持ちうる、ということがわかる。

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p095
    しかし、例外を生じせしめる無数の事情を数え上げることが、どうしてできようか。

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p097
    奢侈は金持ちも貧乏人も同時に、すなわち金持ちを財産によって、貧乏人を物欲によって、腐敗させる。奢侈は祖国を柔軟と虚栄に売り渡す。奢侈は全ての市民を国家から奪って、ある市民を他の市民に従属させ、また全ての市民を偏見の奴隷とする。

   民主政もしくは人民政治ほど、内乱・内紛の起こりやすい政治はないということを付け加えておこう。というのは、民主政ほど、烈しくしかも絶えず政体が変わりやすいものはなく、その存続のために警戒と勇気とが要求されるものはないからである。とくにこの政体においては、市民は実力と忍耐とをもって武装し、ある有徳な知事がポーランドの議会で言った言葉をその生涯を通じて、毎日心の底から叫ばねばならぬ。「私は奴隷の平和よりも危険な自由を選ぶ」と。

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p102
    政治の説教者達は、人民の力はすなわち国王の力なのだから、国王の最大の利益は、人民が富み栄え、人口が多く、強力であることだ、と国王たちに言うだろうが、それは無駄だ。国王たちは、それがウソだということをよく知っている。

   マキャヴェルリは、国王たちに教えるようなふうをして、人民に重大な教訓を与えたのである。マキャヴェルリの「君主論」は共和派の宝典である。

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p105
    征服することは統治することよりもはるかに易しい。丁度いい梃子があれば、一本の指で世界を動かすこともできるが、世界を支えるためにはヘラクレスの肩が必要である。

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p106
    ディオニソスが彼の息子の恥ずべき行為を叱って、「私はそんなことをしてみせましたか」と言ったとき、彼の息子が、「ですが、あなたのお父さんは王ではありませんでした」と父に答えた言葉こそ、実にもっともな言葉であった。−−−プルタルコス

   最も偉大な王たちは、決して、支配するように教育されたのではなかった。支配するという学問は、いくら学んでも、少しも精通しない学問であり、命令によってよりも、服従によってそれを一層よく身につけることができる。「善いことと悪いこととを区別するもっとも便利でもっとも手っ取り早い方法は、他の王の下に立った時、そのことを汝が喜ぶかどうかを考えてみることである」−−−タキトゥス

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p110
    自由は、どんな風土にでも実を結ぶものでないから、全ての国民がこれを手に入れるわけにはゆかぬ。モンテスキューの立てたこの原則は、考えれば考えるほど真実だという感じがする。これに反対すれば反対するほど、次々と新しい証拠が出てきて、この原則をいよいよ確かにする結果になる。

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p111
☆  人民と政府との距離が増すにつれ、租税は重くなる

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p116
    猛獣は荒野においてのみ支配者である−−−cf p208の注

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p118
    精神的なものの量を測る正確な尺度はないのだから、特長について意見が一致しても、どうして評価について一致が得られようか?

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p119
    「一人ぼっちになって、これを平和と呼ぶ」−−−タキトゥス

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p120
    マキャヴェルリは次のように言った。殺人、追放、内乱のただ中で、わが共和国はより強国となり、その市民の徳、習俗、独立は、国を強化する効果を持ったように思われる。全ての(言葉の上の)不和が国を弱める効果を持ったことの比ではない、と。少しくらいの動乱は、魂に活動力を与える。そして、真に人類を繁栄させるのは、平和よりもむしろ自由である。

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p122
    人民が自分に代わって統治する首長たちを持っている以上、それらが何という名で呼ばれていようと、それはやはり貴族政なのだ。
  貴族政の悪弊から内乱が生じ、三頭政治が生まれたのである。そして、シラ、ユリウス・カエサル、アウグストゥスが事実上、正真正銘の君主となり、ついにティベリウスの専制政治の下に、国家は解体した。だからローマの歴史は、決して私の原則を破るものではない。かえってこれを確証するものである。

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p127
    ☆精神的な事柄においては、可能性の限界は、我々が考えるほど狭いものではない。限界を狭くしているものは、我々の弱さ、悪徳、偏見である。下劣な人間は、偉大な人物のあることを決して信じない。卑しい奴隷は、「自由」という言葉を聞いても、せせら笑う。

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p129
    ギリシャの諸都市が、(ペルシャの)大王に抵抗したように、また近くは、オランダやスイスが、オーストリアの王家に抵抗したように
→連合

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p130
    ☆都市の城壁は、ただ農家を取り壊した石材によってのみ作られることを、覚えておくがよい。首府に聳える宮殿を見る度に、私は、一地方の家が全て壊されるのを見るような気がする。

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p131
    この人民の集会は、いつの時代にも首長たちの恐れるところであった。だから、彼らは、集まっている市民に、いやがらせをするために、常に、配慮、反対、妨害、甘言を惜しまなかった。市民が貪欲、怠惰、小心で、自由よりも安穏を好む時には、増大する政府の力に対して、長く持ちこたえることができない。

   ひとたび、公共の職務が、市民たちの主要な仕事たることを止めるやいなや、また、市民たちが自分の身体でよりも、自分の財布で奉仕する方を好むに至るやいなや、国家はすでに滅亡の一歩前にある。

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p132
    (職務に)金を出すと、まもなく諸君は鎖に繋がれることになるだろう。

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p133
    よい法律は、ますますよい法律を作るが、悪い法律は一層悪い法律をもたらす。

   国事について誰かが「私に何の関係があるか?」などと言い出すやいなや、国家はもはや滅びたものと考えるべきである。

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P134
    権利と自由とがすべてであるところでは、不便は物の数ではない。

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P135
    諸君は自由よりも利得に重きを置く。そして諸君は奴隷となることよりも、貧乏の方を一層恐れるのだ。

   諸君のような近代人は奴隷を全く持たないけれども、諸君自身が奴隷なのだ。諸君は諸君の自由を売って、奴隷の自由を買っているのだ。この方がよいと自慢してもダメである。私はそこに人間性よりもむしろ卑屈さを見るのだ。

   ☆人民は代表者を持つやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民は存在しなくなる。

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p141
    ところが、またこの(政体の変更に慎重でなければならぬ)という義務から、統治者は、大きな利益を引き出す。つまり、人民の意志に反して権力を保持しながら、人民の権利を横取りしたとはいえないようにするのである。というのは、与えられた権利だけしか用いていないように見せかけながら、実は権利を拡張し、公安を口実にして、よい秩序を回復するための(人民の)集会を、妨げることは、統治者にとって、まことに容易なことだからだ。こうして政府は、沈黙を破ることを禁じておいて、その沈黙を利用し、あるいはわざと不法行為を犯すように(挑発)しておいて、これを利用し、その結果恐怖のため沈黙している者は、政府を是認しているのだと、勝手に決め込み、敢えて沈黙を破る者は、これを罰するのである。ローマの十大官が、最初一年の任期で選ばれたにもかかわらず、次の年まで居座り、さらに民衆の集会をもはや許さないで、永久に権力を保持せんと試みたのは、これに当たる。そして世界の全ての政府は、ひとたび公の権力を我がものとすると、このいとも容易な方法によって、早晩、主権を乗っ取るのである。

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p144
   平和、団結、平等は、政治的なかけひきの敵である。正直で単純な人間は、単純さのゆえに、だまされにくい。術策や(巧みな)口実をもってしても、彼らをだますことはできない。彼らは、あざむかれるだけのずるさすらない。

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p145
   理論家たちが間違いをおかすのは、つぎのような事情による。すなわち、彼らは、当初から悪く構成されている国家だけしか見ていないので、いま述べたような政治を、そこで維持することは不可能だと思い込んでいる。彼らは、ずるい人間や口のうまい人間が、バカげたことを言って、パリやロンドンの人民をまるめこむ光景を想像して、笑う。彼らは、ベルヌの人民ならクロムウエルをこき使い、ジュネーヴ人ならボーフォール公を訓練しただろうということを知らないのである。
 
 国家が滅亡に瀕して、もはやごまかしの空虚な形でしか存在しなくなり、社会の絆が、全ての人々の心の中で破られ、もっとも卑しい利害すら、厚かましくも公共の幸福という神聖な名を装うようになると、その時には、一般意志は黙ってしまう。全ての人々は、人には言えない動機に導かれ、もはや市民として意見を述べなくなり、国家はまるで存在しなかったかのようである。そして、個人的な利害しか目的としないような、不正な布告が、法律という名の下に、誤って可決されるようになる。

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p146
   彼にとっては、公の不幸から彼が受ける不幸の分け前は、自分一人で我がものにしようと思っている幸福に比べれば、何でもないように見える。この個人的な幸福を除けば、彼も、自分自身の利益のために、全体の幸福を、他のいかなる人にも劣らず強く欲しているいるのだ。投票を金銭で売るときでさえ、それによって彼は、自己の心中から一般意志を消滅させたのではなく、一般意志を避けたのである。彼が犯した過ちは、質問の意味を変えて、尋ねられたのとは別のことを答えたという点である。

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p148
   ☆全会一致の同意を必要とする法は、ただ一つしかない。それは社会契約である。なぜなら、市民的結合は、あらゆるものの中で、もっとも自発的な行為であるから。全ての人間は生まれたときは自由であり、自己自身の主人であるから、何人(なんびと)も、彼の同意なしには、いかなる口実の下にも、彼を服従させることはできない。奴隷の子供は、奴隷として生まれたのだと決めてしまうことは、彼は人間として生まれたのではないと決めてしまうことだ。
  だから、たとえ社会契約の時に、反対者がいても、彼らの反対は、契約を無効にするものではない。それは、ただ、彼らがその契約に含まれるのを妨げるだけである。

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p149
   ☆国家の全ての構成員の不変の意志が、一般意志であり、この一般意志によってこそ、彼らは市民となり、自由になるのである。*

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p150 
  *ジェノアでは、監獄の前と、ガリー船囚人の鉄鎖の上に、この「自由」という言葉がしるされている。この標語の用い方は巧みであり、また正しい。実際、市民が自由であることを妨げるのは、あらゆる種類の悪人たちだけである。これらの悪人どもが全てガリー船苦役に処せられるような国では、もっとも完全な自由をうけることができるであろう。

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p151
   ☆「抽選による選挙は民主政の本質にかなうものだ」と、モンテスキュはいっている。これはわたしも賛成である。しかし、どうしてそうなるのか?彼は続けていう。「抽選は誰をも傷つけない選出の方法であって、各市民に、いつかは祖国の役に立つことができるというもっともな希望を与える」しかし、これは理由にならない。

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p153
   ☆しかし、すでにのべたように、真の民主政は、決して存在しないのである。

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p154
   ☆われわれは、ローマの初期について、十分確かな資料は、なにももっていない。ローマの初期について言いふらされていることの大部分は、作り話であるとはっきり思わせるふしすら多い*。一般に、民族の年代記の中で、もっとも教訓にとんだ部分は、その民族の建国の歴史だが、それは、われわれに最も欠けている部分である。われわれは日々、どんな原因から、国家の革命が生まれるかを経験によって知らされる。しかし、形成期にある民族はもはやないから、どのようにして民族が形成されたかを明らかにするためには、ほとんど推測する以外にはない。
   *「ロムルス」(Romulus)から由来していると主張されている、「ローマ」という名前は、ギリシャ語であって、「力」を意味している。「ヌマ」(Numa)という名前もまたギリシャ語であって、「法」を意味する。この都市の最初の二人の王が、彼らの事績にこれほど深い関係のある名前を、あらかじめも
っていたとは、なんとみえすいたことではないか?

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p155
   ☆既成の慣習があるということは、少なくとも、その慣習に起源があったことを、証明している。

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p167
   ☆☆健康な人の摂生法が、病人には適当ではないように、腐敗した国民を、健全な国民に適するのと同じ方法で治めようとしてはいけない。

 ☆☆共和国の末期になると、法律の不備を補うために、しばしば非常手段にうったえることを余儀なくされた。あるときには偽って、不思議なことが起こったとされた。しかし、この手段は、人民をだますことはできたけれども、人民を支配する人々を、だますことはできなかった。

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p170
   ☆護民府は、政府と同じく、その構成員の増加によって弱化する。はじめは二人、ついで五人であったローマの護民官が、その数を二倍にしようとしたとき、元老員はなすがままにさせた。それは護民官の一部をして他を制せしめうる確信があったからだが、まちがいなくその通りになったの
である。

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p171
   ☆☆人はすべてを先見することはできない、ということに気づくことが、きわめて必要な先見なのである。

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p177
   ☆スパルタの会議で、品行のよくない人が、よい意見を開陳したとき、監察官たちはこれを無視して、同じ意見を有徳な市民に提案させた。一方にとってはなんという名誉、他方にとってはなんという汚名だろう。しかも両者のいずれにも、[正面から]賞賛も非難もあたえずに!サモス(*かれらは実は他の島のものなのだが、わが国語の上品さが、ここではその名をいうことを許さない)の酔っぱらいどもが、監察官の法廷をけがしたことがあった。その翌日、公の命令によって、サモス人は下劣であってもよい、という許可が与えられた。このようなかたちで罰せられないことの方が、ほんとうに罰せられたより、ずっとつらかったことだろう。スパルタが、これがまっすぐなことだ、あるいはそうではないことだ、と宣言した場合、全ギリシャはこの判決に対して抗議することはなかったのである。
 
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p184
   ☆しかし、世人はすべてそんなふうに寛大なのではない。

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p185
   ☆もっと奇妙な第三の種類の宗教がある。それは、人間に、二つの立法、二つのかしら、二つの祖国を与えて、人間を矛盾した義務に服従させ、彼らが、信心をしながら同時に市民ではあり得ないようにする。ラマ教とはこんなものであり、日本の宗教も同様であり、ローマのキリスト教もそうであった。人々はこのローマの宗教を僧侶の宗教と呼ぶことができる。これらの宗教からは、名前のつけようもない、混合した非社会的な一種のおきてが生まれる。

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p186
   ☆しかし、この第二の宗教は、あやまりといつわりの上に基礎づけられているので、それが人々をあざむき、彼らを軽信的、迷信的にし、また神の真の礼拝を空しい儀式の中におぼらせる点で、悪い宗教である。それは、排他的、圧制的になって、人民を残忍かつ不寛容にする時もまた、悪いものとなる。そうなれば人々は殺人と虐殺のみを熱望し、彼らの神々をみとめない人々をたれかれとなく殺しながら、神聖な行動をしていると思い込む。このことが、このような人民を、他のあらゆる人民と戦争するような自然状態におくが、その状態は彼ら自身の安全にも、著しく有害なものである。
 
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p190
   ☆この宗教(キリスト教)の教理は、その宗教を信じている市民が、他人にたいしてはたすべき道徳と義務に、この教理が関係するかぎりにおいてしか、国家ならびにその構成員の関心をひかない。その上、めいめいは、このままの意見をもってよいのであり、それは主権者の関知すべきところでない。なぜならば、主権者は彼岸の世界についてはなんの権限をももたぬため、臣民がこの世においてよき市民であるならば、来世においていかなるめぐりあわせに会おうとも、それは主権者のあずかり知らぬことなのである。
 
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p192
   ☆カエサルは、カティリナを弁護して、霊魂は滅亡するという教義をたてようと努力した。カトーとキケロとは、この教義を反駁するために理屈をこねまわすことを好まなかった。彼らは、カエサルの言葉が悪い市民の言であり、国家に有害な説を主張したことを示すだけで満足した。実際、ローマの元老院が判断しなければならなかったことはこの点であって、神学の問題ではなかったのだ。

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p193
   ☆僧侶は、たとえ少しでも常識を???わたしは、勇気を、とはいわない???もっておれば、[人々には]なすがままにまかせ、自分は自分で勝手なことをするであろう。

 ☆すべてを確実に独占しているときには、一部分を放棄することは大きな犠牲ではないように、わたしは思う。

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                                                                         2013年7月13日タイプ終わり