ヴィルヘルム・マイスターの徒弟時代 (上)

                                       小宮豊隆訳 岩波文庫

旧字・旧仮名遣いは改めました。また、漢字変換の煩雑を避けるために、一部、送り仮名や漢字が原書と異なるものもあります。

================================================================================

p031
    「一座はこれで大芝居のできる衣装がちゃんと調った。さてこれからは、次から次と興行が続いたものと、みんな思うに違いない。事実は、
他の子供がいつでも経験するのと同じような事が、私にも起こった−−−子供たちは遠大な計画を立てる、大がかりな準備をする、一二度は実際にやってみもする。その後では、すっかりうっちゃらかしてしまう。それと同じ過ちを私も犯した。私にとって一番楽しみだったのは、工夫をすること、空想力を働かせることだった。この、もしくはあの脚本が、その中に出てくる、ある場面の為に、私の興味をひいた、私は早速そのための新しい衣装を作らせた。そういう準備のお陰で、人形の元の衣装は滅茶苦茶になり、足りなくなり、一番初めの大芝居さえ上演する訳には行かなくなってしまった。私は私の空想に身を任せ、いつまでたっても吟味と支度とばかりで、百千の空中楼閣を築き、そうして自分は小さな建物の土台を毀してしまったのだということを、夢にも気がつかなかった」

================================================================================

p049〜050
    他人の馬鹿で儲けるということほど、世の中に理屈に叶ったことはないと、僕は思う」
  「僕は、人間の馬鹿を治してやるほど高貴な楽しみは、世の中にないと思う−−−」
  「僕の知っている限りでは、そんなことは恐らく無駄骨だよ。たった一人の人間が悧巧になり金持ちになろうとするのでさえ、相当に骨が折れる、然も、それは大抵は他人を犠牲にして達せられる」

================================================================================

p054
    「それに君が」と、ヴェルネルは声を張った、「事、人間に関する限り何でも心から興味を持っている君にとって、勇ましい企業にくっついて来る幸福が、君の目の前で、人々に授けられるところを見たら、どんな見物に見えることだろう!無事に航海をすまして帰ってきた船だの、大漁の為に予定よりも早く帰ってきた船だのを見るほど、愉快な眺めが外にあるだろうか!親類、友達、仲間ばかりではない、どんな赤の他人でも、船がまだ陸に触らない先に、閉じ込められていた水夫たちが陸に飛び移り、再び自由な心持ちになり、さて彼が心の許せない海から捕って来たものを、真実のある地(つち)に預ける。そういう喜びを見れば、心を牽きつけられない者はない筈だ。利得は、君、数字に現れるだけではないのだよ。幸福は生きている人間の女神だ。その女神の寵愛をほんとに感じる為には、人は生きる必要がある、そうして真に活き活きと働いて、真に感覚的に享受している人間を見る必要がある」

================================================================================

p076☆☆☆
    この地上に艱難を伴わないものが、何があるか!

   ただ内なる促しが、歓びが、愛が、我々を助けて、障害に打ち克ち、道を拓き、外の者が惨めに痩せ細っている狭い天地から、高いところへ抜け出させてくれるのだ。

   君は一つのものに燃え寄り一つのものに塊り合う全体というものを感じていない、これこそ精神によってのみ発見され、理解され、実現されるものなのだ。君は、人間の内部にはよりよき炎が燃えていて、もし人がこれに少しも栄養を与えず、少しも刺激を与えることがないと、日々の必要と無頓着との灰の下深く埋められてしまうが、然しそれは長い間、寧ろいつまでも押し殺されてしまうことがないのだということを、感じていない。君は君の魂の中に、それを吹き起こす力を、君自身の心臓の中に、そうして呼び覚まされたものに栄養を供給する富を、感じていない。飢餓が君を駆り立てる、不自由を君は不快に感じる、そうして君には、どんな地位にもこういう敵が隙を窺っているのだということが、分からない、然もこういう敵は歓びと心の落ち着きとをもってのみ克服することのできるものなのだ。

================================================================================

p077☆
    軍人でも、政治家でも、牧師でも、誰にでも君の考え方を持たせてみたまえ、その人は必ず君と同じ権利を持って自分の地位の惨めさの不平を言うに違いない。実際世の中には、あらゆる生活感情からすっかり見放されて、人間の全生活と本質とを無だと説き、労苦に満ちた塵に等しい存在だと説く人間さえも、いるではないか。君の魂の中に活きて動く人間の姿が躍動し、君の胸を同感に燃える火が暖め、君の姿全体の上に心の底から動き出る気分が広がり、君の咽喉の音と君の唇の言葉とが聴いて快いものになり、君が君自身を十分に感じることができるようになったら、君は必ず、他人の中に自分を感じることのできる、場所と機会とを求めるようになるに違いない。

================================================================================ 

p116
    詩は傑作でなければ、全然存在することを許されない。傑作を生み出す素質のない者は、芸術を諦めて、それへの一切の誘惑を厳密に警戒すべきだ。

================================================================================

p128
    人々が彼を歓待してくれる場合でも、面白くないことだらけだった。いくらかでも彼に物を教えてくれられそうな人というのは、ほんの僅かしかいなかった。この人となら、有益な取引関係が結べそうだと思える人も、僅かだった。

================================================================================

p136
    どこを歩いてみても、目に付くのは禁止すること、妨害すること、拒絶することだらけで、命じたり、促したり、報いたりするところは、殆どない。なんでもそれが害になるまでは、ほったらかして置かれる。後になって起こったり干渉されたりする

================================================================================

p143
    「自然だの自然の景色だのということを一切聞かずにいられたらどんなに有難いだろう」と、男が行った後でフィリーネが声を張った。「自分が現在楽しんでる楽しみを目の前で勘定してみせられるほど、厭なことはない。音楽が始まればダンスをするように、天気がよければ散歩をする。誰が音楽のことを、天気のいいことを、一刻でも反省してみる者がありますか。私たちに興味があるのはダンサーで、ヴァイオリンじゃない。美しい黒い目の中を覗き込むのが、碧い目にとっては嬉しいことなのです。それに比べて泉だの井戸だの、古いぼくぼくの菩提樹だの、何が面白いんです」

================================================================================ 

p149
    「自分の高貴な言葉や善良な行為によって、これほど大衆的な印象を巻き起こすことができたとしたら、どんな俳優が、どんな作家が、のみならずどんな人間が、自分の願望の絶頂に達したと思わない者があるだろうか。この人たちが自分の体の芸の巧みさで人々を狂喜させたように、善良な、高貴な、人間に値する感情を、同じように素早く電流によって撒き散らし、人々を狂喜させ、人々にあらゆる人間的なものに対する同感を与え、幸福と不幸と、智慧と愚昧と、更に無意味と痴呆との観念を点火し、揺り動かし、人々の停滞している内面を、自由に、溌剌に、純粋に流動させることができたとしたら、どんなに有難い気持ちになれることだろうか!」こんなことを我々の主人公は話した、然しフィリーネにもラーエルテスにもこういう議論を続ける気持ちはなさそうだったので、彼は一人でこの得意の観想に耽りながら、夜遅くまで町の中を散歩して廻った、そうしてかれの、善良なもの、高貴なもの、偉大なものを芝居によって具体化するという古い念願を、又しても解放された空想力のあらゆる溌剌さとあらゆる自由さとをもって追い廻した。

================================================================================

p168
    人間が自分でないものにならない、みんながてんでんに自分勝手なことばかりする社会では、品位とか満足とかは長続きがしない、また人間が徹頭徹尾自分でないものばかりになっていれば、初めからそんなものは持てない。

================================================================================

p174
    例えば運命が一人の人間を立派な画家に仕立て上げようとした、然るに偶然はその人の若い時分をむさくるしい小屋、厩、物置小屋の中に突き落としたとする、あなたはこういう人間がいつかは魂の純粋と高貴と自由とに高まって行くことができると思いますか。彼が勢い込んで、自分の若い時分の不純な者をつかみ、自分の流儀で高貴なものにして置けば置くほど、その不純なものは彼がそれを克服しようと努めるに従って彼自身と切手も切れないように結びついてしまい、彼の一生のうちのいつかはそれだけ彼に手ひどい復讐を加えるのです。昔下等な無意味な社会に住んでいた者は、たとえその後優良な社会に住むことができるようになっても、昔の印象は自分の若い時分の、恐らくは二度と繰り返されることのない歓びの思い出とくっついているので、昔の社会に憧れるようになるのです

================================================================================ 

p177
    女性の抱擁の恐ろしい陥穽(かんせい)には近寄るまい、真実のない異性は避けよう、自分の苦痛、自分の傾愛、自分の甘い欲望は自分の胸の中に閉じ込めておこう

================================================================================

p195
    ヴィルヘルムは、自分の心の落ち着いているときには子供の熱心を非常に喜んで眺めていたが、今日は然し彼女の見せるものに殆ど注意を払わなかった。彼女はそれを感じ、自分は今日は大変うまくできたと思っていただけに一層そのことを悲しんだ。


================================================================================

p197
    涙もてわがパンを喰らい
    煩ひ多き夜夜なを
    床の上に泣き明かしたることなき者は、
    天なる御力よ、おん身を知らじ。

Wer nie sein Brod mit Tranen ass,
  Wer nie die Kummervollen Nacht
  Auf seinen Bette weined sass,
  Der kennt euch nicht, ihr himmlichen Machte

Whoever eat without tears his bread,
  Whoever through nights heavy hours
  Sat weeping on his lonely bed,
  He knows you not, ye heavenly powers.

================================================================================

p203
    ヴィルヘルムはこの光景を考え込み且つ自ら恥じて眺めた。彼は自分自身の秘奥が、猛烈な誇張された輪郭で表現されているのを見た。彼もまた打ち克つことのできない嫉妬を煽られていたのである。彼もまた体裁が引き止めさえしなかったら、自分の野生のむら気を満足させ、進んで腹黒い気味よがりで愛する相手を傷つけ、自分の恋敵に喧嘩を売っていたに違いなかった。自分を不快にする為だけに存在しているように見える人間を、片っ端から殺してしまおうという気持ちになっていたに違いなかった。
================================================================================

p205
    彼は自分の精神が無条件の希望に満ちた努力によって高く引き上げられ、あらゆる種類の溌剌とした享受の中を、エレメントの中のように泳ぎ回っていた時分のことを思い出した。自分は今あてのない彷徨の中に墜ちている。自分はこれまでぐっと一息に飲み干していたものを、ほんのちびちび啜るように味わっているに過ぎないのだということが、彼にはっきり分かってきた。ただ彼には、どんな打ち克ち難い必要に迫られて自分には自然が法則になってしまったのか、また、この必要が境遇の為にただ刺激されるばかりで半分しか満たされないままで、邪道に引き入れてしまったのかは、はっきりしなかった。 

================================================================================
 
p228
    ヴィルヘルムは、相当な好意を持って演出を引き受けた、然し我々の新しい座長は彼の骨折りを少しも認めようとはしなかった。寧ろ座長は威厳をつくろってさえいれば一切の必要な見識は独りでに湧いてくると信じていた。特に彼にとって最も楽しみな仕事の一つはカットすることだった、そうして彼は外のことには一切お構いなしにあらゆる戯曲を適当な時間に切り詰めた。それが大変に受けた、見物は非常に満足した、最も趣味の高い町の住民たちは都の芝居も決してこの町の芝居より優れてはいないと主張した。 

================================================================================

p256
    殿下はその一人一人に対して極めて親しげに何事かを訊き、また極めて愛想よく何事かを語ることを心得ていた。

================================================================================

p259
    「それで分かった、あの人は自分の厩にまた一頭繋いだわけだな」と返したからである。ツィルツェの危険な愛撫をあまりにも露骨に指示するこの気の毒な比喩

================================================================================

p260
    魔法使いの庭に踏み込んで、魔法で作り出された春がもたらすあらゆる歓びを今まさに受けようとしている幸福な者にとって、鶯の歌に聴きとれている耳元で、姿を変えられた一先輩が思いがけず唸ってみせる時ほど、不愉快にぎょっとすることはないだろう。

================================================================================

p262
    ヤルノーがやって来て、我々の主人公の言葉を驚いた顔をして聞いていた。殿下は受け答えはせず、愛想の好い目つきで自分の同意を示しただけで、傍らを向いた。こういう場合に議論を続けて問題を残りなく片づけてしまおうとするのは、時宜を得たものではないということを知らなかったヴィルヘルムは、もっと話し続けて殿下に、自分は殿下のご贔屓の作家をこれほどの感情をもって読みこれほどの利益を得ているということが見せたかった。

================================================================================

p263
    人間が自分の力、才能、理解の発展に近づいて来ると、しばしば困惑状態に陥るものである。その時、親切な友達が彼に手を貸して容易くそこから抜け出させてくれる。彼は宿屋から遠くない場所で水に落ちた旅人のようなものである。誰かが直ぐに駆けつけて彼を陸に引き上げてくれさえすれば、彼は一度濡れただけでことが済む。然し、彼が自力で上がりはあがったが、然し向こう岸に上がったりすると、彼は難渋で遠い回り道をして目的地に着かなければならない。

================================================================================

p281
    シェークスピアの世界をほんの少しばかり覗いて見ただけで、私は何ものにもまして強い刺激を受け、現実の世界の中で更に歩調を早めて前進し、その世界の上に覆いかぶさっている運命の潮流の中に跳り込み、自分にもできるものなら、たとえ僅かでもいい、いつかは真の自然の大海からすくい上げて、それを舞台から渇いている祖国の見物に捧げたいという気になりました。

   君はその決心を取り逃がさずに活きて動いている生活の中へ入って行きたまえ、そうして君に恵まれている有望な年月を見事に活用するように急ぎたまえ。

================================================================================

p284
    自分が蒔いた種の為に苦しめられている罪のない人間を嘲笑し、謝ろうとも埋め合わせをつけようとも考えないほど意地の悪いことはない    

2013/03/31